第3回 猪苗代町の土津(はにつ)神社

猪苗代町に土津(はにつ)神社があります

旧会津藩松平家藩祖の保科正之公が祀られています

歴史を感じさせる境内は紅葉の名所でもあります

土津(はにつ)神社

土津(はにつ)神社

土津(はにつ)神社

保科正之は三代将軍家光の異母兄弟として出生しますが

7歳の時信州高遠保科家の養子となります

その後高遠藩主となり、家光の補佐を行うなど要職につきます

会津23万石を与えられますが

江戸にいて家光、その子家綱のために終生尽くしました

藩政においても仁と徳の政治を行い、

飢饉の時なども餓死者を出さなかったそうです。

正之は、幕政を文治主義(法を守らせ政治を行う)で行うこととし

まず領国の会津で実施することにしました

その文治政治の基本理念は

家訓(かきん)15か条に明示されています

1、大君義一心大切に忠勤を存ずべく、、、、

若し二心を懐かば則ち我が子孫にあらず

これは将軍、及び主君の絶対服従を規定したものです

これが幕末京都守護職を引き受けざるを得ない

根拠となってしまうのですが

正之の善政による藩政の長期安定化が続く中で

城下町若松の発展も目覚しかったようです

会津の名君と言われています

<鶴ヶ城(歴史春秋社)一部参照>

そんな歴史を思い

境内を散策しながらみる紅葉はとてもすばらしいです

この秋2度も足を運んでしまいました

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第2回 鶴ヶ城

会津のシンボル鶴ヶ城に行って来ました

鶴ヶ城は1384年葦名直盛氏が東黒川館を作ったことに始ります

その後、伊達家、蒲生家、上杉家、再び蒲生家、加藤家、保科家、松平家

と幾多の変遷の後、戊辰戦争の悲劇で幕を閉じた名城です

現在のお城は昭和40年に再建されたものです

ちょうど戊辰戦争140年に当たることから色々な催し物がなされていました

松平家の家宝展が開催されていて

天皇家、徳川家などとの関わりを示す800点もの品々があります

その中に孝明天皇から松平容保に与えられた

宸翰(しんかん)も展示されていました

江戸時代末期

徳川幕府は外圧、内圧により危機にさらされていました

公武合体などで政情の安定をはかろうとするのですが

時代のうねりははるかに大きかったのです

京の都では不穏な空気がながれ

朝廷を守るため

何処の藩が京都守護職を引き受けるかで

議論がかわされていました

どの藩も火中の栗は拾いたくありません

会津藩も家老達は反対するのですが

保科公以来の家訓(かきん)15条を根拠に

若い藩主松平容保は京都守護職を引き受ける

事となります

その宸翰(しんかん)は松平容保が京都守護職時代

朝廷倒幕派の長州や公家を排除したこと(文久の変)

の働きにより孝明天皇から賜ったものです

松平容保に対する信頼の厚さが証明されています

その後孝明天皇が崩御し天皇の信頼を得ていた会津藩は

後ろ盾を失い、時代の波に翻弄されます

時代は倒幕の危機が迫っていましたが御三家、親藩何処も頼りなく

会津と桑名(三重県)だけが頑張っていたがもう限界です

大政奉還で慶喜は政権を返上

江戸無血開城

薩長、岩倉具視らは慶喜を朝敵とする密勅を捏造し

慶喜を切腹させて、新政権を樹立させようとするのですが

西郷、勝の会談で江戸城を引きわたし江戸を去ることで決着します

しかし、最大の抵抗勢力だった会津を目指し薩長などの

連合軍の侵攻が始りました

幕府の身代わりとしての会津に矛先が向かったのです

だが東北の諸藩は会津を朝敵として討伐することに

異議を唱えました

御所を発砲した長州が許され御所を守った会津が

なぜ朝敵なのか、薩長の横暴は許しがたいと

奥羽越列藩同盟を結成し会津を支援し

会津戊辰戦争に突入していくことになります

抗戦虚しく、白虎隊、二本松少年隊、など数々の悲話を生み

軍事力の差は埋めようも無く最後の砦、鶴ヶ城も

篭城1ヶ月で敗れ戊辰戦争は終わるのです

儀に死すとも不義に生きず

会津戊辰戦争はみずからの正義を訴えるために

全員が死をかけて戦いに臨んだ、そして後の審判をあおぐ

そのような気持ちだったと、作家星亮一氏は話されます

この宸翰(しんかん)が早く公になっていれば会津も朝敵と

しての汚名はもっと早く晴れていたかとも思うのですが

明治時代この宸翰(しんかん)の存在を知った

長州出身の貴族院に今公になれば伊藤博文も

困ることになるのでもう暫らく出さないでくれ

容保公には気の毒であった、と言われ

公にしなかった事は

まさに、会津人所以と思えてなりません

そのあたりの所は星亮一氏の「偽りの明治維新」に

詳しく書かれていますので一読いただければ幸いです

140年経った今でも、明治維新前後の会津藩の置かれた

立場を思うとやはり胸が痛んでしまうのです。

鶴ヶ城

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第1回 会津高野山

会津若松市河東町に

「会津の高野山」として会津一円の

信仰を集めている八葉寺阿弥陀堂があります

空也上人の開基と伝えられている真言宗のお寺です

8月1日~7日まで会津高野山参り(冬木沢参り)が行われます

これは、お盆の御魂迎えの行事として広く知られています

空也上人が近在にうち捨てられた遺骸を

弔いこの地に埋葬されたことにより

死者の霊がここ冬木沢に集まっている

との信仰が生まれたのだそうです

新盆を向える親族の皆さんは、朝早くから

亡くなられた死者の霊を迎えに

冬木沢参りに出かけるのです

1日の早朝から大勢の方々のお参りがあります

期間中念仏踊りなども行われるようです。

八葉寺阿弥陀堂
写真奧にあるのが八葉寺阿弥陀堂です

写真右手の塔は平和の塔で

会津一円の皆様方のご寄付により

建立されました。

当社初代栄太郎が地域の皆様方の

労力をいただきながら建立に携わらせていただきました

当時は機械がなく全て人力だったと

今は亡き大姑に聞いたことがありました。

昭和廿六年四月二十六日文部省許可着工

昭和廿六年旧7月一日竣工とありました。

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