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第2回 鶴ヶ城

会津のシンボル鶴ヶ城に行って来ました
鶴ヶ城は1384年葦名直盛氏が東黒川館を作ったことに始ります
その後、伊達家、蒲生家、上杉家、再び蒲生家、加藤家、保科家、松平家
と幾多の変遷の後、戊辰戦争の悲劇で幕を閉じた名城です
現在のお城は昭和40年に再建されたものです
ちょうど戊辰戦争140年に当たることから色々な催し物がなされていました
松平家の家宝展が開催されていて
天皇家、徳川家などとの関わりを示す800点もの品々があります
その中に孝明天皇から松平容保に与えられた
宸翰(しんかん)も展示されていました
江戸時代末期
徳川幕府は外圧、内圧により危機にさらされていました
公武合体などで政情の安定をはかろうとするのですが
時代のうねりははるかに大きかったのです
京の都では不穏な空気がながれ
朝廷を守るため
何処の藩が京都守護職を引き受けるかで
議論がかわされていました
どの藩も火中の栗は拾いたくありません
会津藩も家老達は反対するのですが
保科公以来の家訓(かきん)15条を根拠に
若い藩主松平容保は京都守護職を引き受ける
事となります
その宸翰(しんかん)は松平容保が京都守護職時代
朝廷倒幕派の長州や公家を排除したこと(文久の変)
の働きにより孝明天皇から賜ったものです
松平容保に対する信頼の厚さが証明されています
その後孝明天皇が崩御し天皇の信頼を得ていた会津藩は
後ろ盾を失い、時代の波に翻弄されます
時代は倒幕の危機が迫っていましたが御三家、親藩何処も頼りなく
会津と桑名(三重県)だけが頑張っていたがもう限界です
大政奉還で慶喜は政権を返上
江戸無血開城
薩長、岩倉具視らは慶喜を朝敵とする密勅を捏造し
慶喜を切腹させて、新政権を樹立させようとするのですが
西郷、勝の会談で江戸城を引きわたし江戸を去ることで決着します
しかし、最大の抵抗勢力だった会津を目指し薩長などの
連合軍の侵攻が始りました
幕府の身代わりとしての会津に矛先が向かったのです
だが東北の諸藩は会津を朝敵として討伐することに
異議を唱えました
御所を発砲した長州が許され御所を守った会津が
なぜ朝敵なのか、薩長の横暴は許しがたいと
奥羽越列藩同盟を結成し会津を支援し
会津戊辰戦争に突入していくことになります
抗戦虚しく、白虎隊、二本松少年隊、など数々の悲話を生み
軍事力の差は埋めようも無く最後の砦、鶴ヶ城も
篭城1ヶ月で敗れ戊辰戦争は終わるのです
儀に死すとも不義に生きず
会津戊辰戦争はみずからの正義を訴えるために
全員が死をかけて戦いに臨んだ、そして後の審判をあおぐ
そのような気持ちだったと、作家星亮一氏は話されます
この宸翰(しんかん)が早く公になっていれば会津も朝敵と
しての汚名はもっと早く晴れていたかとも思うのですが
明治時代この宸翰(しんかん)の存在を知った
長州出身の貴族院に今公になれば伊藤博文も
困ることになるのでもう暫らく出さないでくれ
容保公には気の毒であった、と言われ
公にしなかった事は
まさに、会津人所以と思えてなりません
そのあたりの所は星亮一氏の「偽りの明治維新」に
詳しく書かれていますので一読いただければ幸いです
140年経った今でも、明治維新前後の会津藩の置かれた
立場を思うとやはり胸が痛んでしまうのです。
鶴ヶ城